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由緒・歴史

由緒・歴史

飯塚富士神社は、1332年(正慶元年・壬申)に創建されたと伝えられています。 江戸時代には旧飯塚村の鎮守として地域の人々に親しまれ、以来今日に至るまで、地元の信仰を集める神社として大切に守られてきました。 富士の名を冠するこの神社は、富士信仰や富士講の流れも受け継ぎながら、今なお四季折々の祭礼や年中行事を通じて、人々の暮らしに寄り添っています。
また拝殿の裏にある富士塚は、浅間山(せんげんやま)とよばれる墳丘の上に、さらに盛土をして築かれてたもので、明治12年(1879)に地元富士講の人々によって造られたものです。 その後、2017年(平成29年)に整備工事が行われ社殿や富士塚は一新されましたが、ここに上るための石段や富士浅間の石祠・灯籠などが残され、当時の様子をしのぶことができます。毎年7月初旬には「七富士参り」という行事が行われております。 ※現在は、富士塚に上ることは禁じられています。

葛飾区神社調査報告による
飯塚富士神社の由緒

「新編武蔵風土記稿」飯塚村の条に、「浅間社 村ノ鎮守ナリ。安福寺持」といい、「嘉陵紀行」半田いなり詣の記に「堤の上に松の木立ある処にいたり、富士浅間の社小高き処に鎮座まします。銀杏の大成一ト本、其外、木立ものふりたり」とあり、また「明治18年神社取調書上帳」飯塚富士神社の条には
1 祭神・木花咲耶姫命。鎮座之原由、正慶元年壬申(1332)6月創建。奉祀之儀者、同村真言宗安福寺別当進退。御維新之際、諸神社御改正に相成、同村平民清水義久、明治元年12月中、依願転神官ニ奉職ス。
1 社格 明治5年11月14日、村社に被定候
1 本社 山上石祠
1 拝殿 間口2間半 奥行き1間4尺 幣殿6尺
1 坪数 1017坪
1 境内立木 129本
1 神鏡2面 賜神酒徳利一対 三方2基 八足小机拾脚
1 氏子 26戸 管轄庁迄 4里22町
社地は中川の左岸に沿い、西北隅に高さ20、東西径22、南北径20メートルの小高い築山があって、山上に本殿の小石祠があり、築山の南東麓に拝殿がある。
(葛飾区教育委員会 葛飾区神社調査報告より)

祭神

『木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)』
木花咲耶姫命は、日本神話に登場する美しい女神で、富士山をご神体とする信仰とも深く結びついています。火中での出産という逸話を持ち、安産・子授け・家庭円満の神として広く信仰されてきました。
また、花のように咲き誇る生命力と、火山のような力強さを併せ持つ女神として、自然の恵みと調和を象徴しています

歴史

創建のはじまり
(鎌倉時代末期)
正慶元年(1332年)に創建されたと伝えられています。
当時の「飯塚村」(現在の東京都葛飾区南水元)の鎮守として、地域住民の信仰を集めてきました。
御祭神は、富士山の女神として知られる『木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)』です。
江戸時代 この時代には、神社は地元の真言宗安福寺が別当寺として管理していました。
富士山を信仰する「富士講」の影響を強く受け、神社は富士信仰の拠点の一つとして栄えます。
明治時代
明治5年(1872年)
国家神道の政策により、神仏分離のなかで村社に列格。
神仏分離までは、安福寺*1が当社の別当寺であった。
明治時代
明治12年(1879年)
地元の富士講の人々の手で、神社の境内に「飯塚富士(富士塚)」が築造されます。
この富士塚は、高さ約20メートル、直径約20メートルの立派な築山で、富士山の象徴として信仰されました。
現代に受け継がれる
信仰と文化
長年にわたり、「七富士参り」という地域独特の信仰行事が続けられており、草加・八潮・三郷・松戸・江戸川区・葛飾区の富士神社を巡拝する風習があります。
平成29年(2017年) 中川の堤防改修工事のため、富士塚は旧地から北東へ約12メートル移設されました。
神社の伝統行事や富士塚の文化的価値が認められ、「飯塚の富士講」は葛飾区指定無形民俗文化財となっています。
現在の神社の姿 飯塚富士神社は、今でも地元の人々に親しまれ、毎年7月1日の例祭では多くの参拝者が訪れます。
境内には、白髭神社・三峰神社・水神社・稲荷神社といった境内社もあり、地域信仰の中心地となっています。
*1. 安福寺(葛飾区西水元1-7-19)